BEYOND THE IDOL

 第四章 ◆'80年代アイドルへの想い ~番外編~



 さて『アイドルマスター』も全国的に稼働したようですね。こちらは粛々と20年前を振り返っておりますが、ひたすらマイペースでいきますのでよろしくお願いします。
 '80年代における新しいアイドルシーン。それも'85~'86年にターニングポイントを迎える……なんて話が前回の骨子ですが、この頃ですね。自分の周りでもアイドルファンを辞めて行く人が多かったのは。前回までずっと'70年代の頃の話からアイドルシーンを俯瞰した話ばかりだったので、自分のファンとしての話を書きましょうか。
 とはいえ、大したことは無いんですが、ファン活動と言える具体的なことを行なったのは中森明菜です。自分でも意外。というか、中学の時の先輩が中森明菜の親衛隊だったんですね。当時の親衛隊って恐かったんですよ、自分ながらに。で、何故かその先輩が高校生なのに車に乗ってるんですよ。それで、どこにでも連れてってくれるんですね。連れて行かれちゃうって言ったほうが正しいのかもしれませんが、そんな関係で親衛隊の下っ端というか、お手伝いをさせてもらったのが最初でしょうか。
 ただ、表向きには普通に松田聖子とか河合奈保子が好きでした。ただ、この頃って、あまり「誰が好き」なんて言わない感じでしたね。ただ、松田聖子・中森明菜・河合奈保子・柏原よしえあたりを押えておくのが無難なトコ。
 そんな中学のある出来事は今でも覚えています。クラスの級長がみんなの前で「伊藤つかさが好き」って言った時の衝撃! アイドルへの支持は、その者の人格を物語ってしまう可能性がある中、女子に対して「○○(アイドル名)って好き」って言うと「マジか!信じられん。あんなののどこがいーんじゃ!」と、若干軽蔑交じりの眼差しで見られ、下手すると女子から嫌われ兼ねないアイドルがいるんですよ。それが'80年代初頭は伊藤つかさでした(少なくとも私の周りでは)。'90年代初頭は裕木奈江かなぁ(あくまで私の周りでは)。現在は……みなさんで考えて下さい(笑)。
 話を戻して「伊藤つかさが好き」というカミングアウトをした級長に対する女子のリアクションは、予想通り「え~っ!? 信じらんな~いッ!」って態度。誰もがその勇気に感服するとともに、「はぁ、言わなくて良かったぁ」と皆が(自分も)胸を撫で下ろしたものです。

 そうした中、個人的に見てルックス(顔)と楽曲のバランスで良かったと思っているのは河合奈保子かなぁ。ただ、自分は楽曲が良ければ、その曲を歌ってるアイドルも一定量で好きになれちゃうんで、守備範囲は広かったかも。なので、普通にみんなが好きなアイドルは全部好きだったって言っても過言じゃないですね。
 ただ、'84年になると少女隊が登場し、それにハマります。
 前章で記したように、少女隊はそのデビューがあまりにも商業ナイズされ、「ちょっと引くよね」という声も多かったと痛感しています。ただ個人的に、一番最初のプロモーションのイメージが良かったんですよ。アメリカを主要のロケ地とすることで、今までの日本の芸能界臭さ……つまり誰かのエピゴーネンである印象をすべて払拭し、過去のアイドルが持っていた「生活感の無さ」が醸し出されていました。しかも、デビュー曲の作曲は都倉俊一! ピンク・レディーの楽曲を相当評価している自分としては、当時ニューミュージック系の作家陣が多くなってくる中、どこか「本物感」を期待せずにいられませんでした。
 デビュー以降も、色物臭い見られ方が続きましたが、作曲が中崎英也に移り著名な曲も生まれ、二音間をリズミカルに行ったり来たりする「♪チャッチャッチャッチャッチャッチャラー」という少女隊を象徴する定番メロも心地よく、イイカンジになってきました(ちょっと強引な説明ですが)。その矢先、チーコが病気による脱退。かなり萎えましたが、それでもよりダンサブルな楽曲と個々の個性がバランスよく、自分としては'80年代を象徴するアイドルグループなんじゃないかと思っています。
 またメンバーの個性という意味では、可愛い系・キレイ系・ボーイッシュ系と、キャラバランスが秀逸だったことも、ユニットを作って行く『アイマス』的には語れる部分があると思われます。このグループアイドルに関する考察は、今後のコラムの課題としていきたいと思います。

 さて、この'80年代中期から割とアイドルが細分化されていくような感じですね。'84年の末あたりから週刊少年マガジンに載って、青春と言う名のラーメンのCMにセーラー服に赤いマフラーで出ていた斉藤由貴が、野球狂の歌(ドラマ)やオールナイトフジの女子高生スペシャルの司会をやったりと、かなり翻弄されましたが、やはり歌を歌ってから安定したような気がします。
 デビュー曲でいきなり歌の上手さを披露した本田美奈子も可愛い面を支持するのか、ポスト中森明菜と言われた歌の上手さを評価するのか周りでも議論が分かれるトコロでした。また、当時のCBSソニーの得意の音作り(松田聖子チック)で聞かせてくれた松本典子も、ポスト松田聖子には成り得ず、個人的は非常に好きだったんですが、少々パワー不足は否めませんでしたね。実は松本典子のアルバム「Straw Hat」が初めて買ったCDでした。

 夕ニャンが始まった同年4月から高校に行かなくなって良くなったので、免許を取り、知り合いがおニャン子メンバーの高校と曙橋までの通勤(?)ルートと帰宅ルートと自宅の場所を調べてきたので、誘われるがままに色んなトコに行ったものです。例えば私は千葉在住なので、津田沼高校からスタートし……(以下略)。ま、そのあたりは非常に差し支えがあるので(笑)、俗に言う追っかけっぽいことをしていた……ってことに留めておきます。
 とはいえ、おニャン子を熱狂的に支持したりコンサートに行ったりって感じじゃなかったんですよね。すでにその時はレコード屋で働いていたんで、おニャン子のセールスは非常に"実感"できたことは確かです。ただ、それと同時に他のアイドルが売れなくなって行く傾向や、昨日まで別のアイドルのファンだった客がおニャン子に傾倒していく様も、数多く体感させてもらった感じです。ま、今考えると、追っかけとレコード屋のバイトと本放送を見るってのが良く両立したなぁと我ながら関心しますね。
 また、レコード屋で働いていた時の恩恵としては、当時近くのデパートの屋上で行なわれるアイドルショー(言わば営業)の参加券を、ウチの店で配布してたんですね。そうした関連店舗の店員ってこともあり、デパートに来店するアイドルはほとんど見ることができました。

 で、そのおニャン子も'87年の9月のラストコンサートで幕を閉じるわけですが、それよりも前に私の周りのアイドルファンはアイドルファンであることを辞めていきました。おニャン子で燃え尽きたってわけじゃなく、アイドルという事象そのものに興味がなくなったって感じのようですね。
 自分は、実はおニャン子ブームの影で上手くmomoko系にシフトしていました。実はTVにおける表層的な部分を、雑誌の情報のほうが補完してくれて、非常に面白いアイドルへの接し方ができ、新鮮味があったんですね。それまではアイドルの情報って言ったら、明星や平凡など一般的で、男性向けとしてはGOROやスコラあたりがメイン。BOMBやSUGARなんてまだ存在を意識してなかった。そんな時期にmomokoから得られた情報は、TVや大手芸能誌から受け得るモノとは違い、単純に言えばマニアックな知的欲求を満足させてくれるものだったんですね。
 要は、雑誌が先行してデビュー前もしくは直後のアイドルを取り上げるんですが、TVにはまだ出るほどではない。……けど雑誌で情報を得て「気になる娘」ってスタンスを築いてからTVに出て動いているのを見て一喜一憂する、みたいな。このmomoko商法(っていうの?)って何故かハマれたりするんですよね。
 そんな状況によって、結果として上手く'80年代中期を乗り越えた感じです。

 さて次回は、第二黄金期とも言える'80年代後半のアイドルの話です。類い稀なアイドルや非常に優れた楽曲が多い時代なんですが、今一つメジャーになれなかった悲劇の時期……なんて大げさに前振りしておきましょう。

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