BEYOND THE IDOL

 第十一章 ◆ 追悼・本田美奈子.



 気持ちの上ではためらいがありつつも、話題として取り上げたいと思います。
 当然、様々なところで語られる話というよりは、至極個人的にリアルタイムで感じてきた「本田美奈子像」を綴ってみたいと思います。
 彼女のデビューは'85年。当時の私は仲間とともに普通にアイドルにハマっていました。前年の'84年組が割と話題性をひっさげてデビューする傾向が強かった反動もあり、この'85年は純粋に「お、かわいい」とかそういう純粋で感覚的な部分でアイドルに着目する気持ちが高まっていました。
 もちろん、当時のアイドルはレコードデビューする前から雑誌などへの露出も多く、満を持してデビューという格好になります。そんな情報が錯綜する中、仲間内では本田美奈子派と松本典子派に真っ二つに分かれたのでした。まぁ、実のところ私は松本典子派だったわけですが、比較対象として本田美奈子を徹底的にマークし、熱心に聞かざるを得ない状況だったわけです。
 さて、本田・松本ともにほぼ同時期にシングルデビューをし、聞き比べに入ります。当時のヒットチャートの結果はともかく、普通にアイドルに期待されるような楽曲だったのは松本典子「春色のエアメール」。CBSソニー特有の……というか、当時松田聖子が成功したソニーらしい音作りを踏襲した感じで、新人らしからぬ完成度でした。
 対する本田美奈子は「殺意のバカンス」。うーん、"殺意"ってデビュー曲にしてはかなり謎なタイトルだし、曲調も微妙。それまで見ていた可愛らしい美奈子スマイルとは乖離した展開と、デビュー曲の作詞が売野雅勇という微妙さも手伝って、美奈子派はとまどうばかり。しかし、その歌唱力の高さは有無を言わせぬものがあり、この点は、私を含めた松本典子派も認めざるを得えませんでした。さらに曲調と歌唱力のマッチングは、ポスト中森明菜という印象。つまり「松本典子VS.本田美奈子」は、「聖子VS.明菜」に通じるほどのクオリティの大物感を感じさせるほど、……とは言い過ぎでしょうか。
 さて、松本典子の二曲目は「青い風のビーチサイド」。これまた典型的なアイドル系定番"夏"ソング。聖子の「渚のバルコニー」を歌ってた時期を彷彿とさせる爽やかな曲調と柔らかな歌声。そうした確固たる地盤を築きつつある松本典子に対し、本田美奈子の二曲目は「好きと言いなさい」。極端な路線変更によるベタなアイドルソングにチャレンジ。ただ、個人的にはこうした路線のほうが良いなぁ……などと内心思っちゃってました。
 そんな本田美奈子サイドも、方向性に迷いがあるのか続く三曲目はいまさらのアイドル定番"夏"ソング「青い週末」。いや、うかつに良い曲なんですが、こうした経緯や当時の評価からしても、あまりヒットしたとは思えません。しかも、B面は「モーニング美奈ール」というボイス集。「おっはよー、起きて~」とか言ってるだけで、曲を作ってもらってない状況。ファンには嬉しいモノだったのかもしれませんが、カバーソングすら歌わせてもらえないのは、かなり可哀想に思いました。
 とはいえ、対する松本典子の三曲目も松任谷由実による「さよならと言われて」。聖子も次第に松任谷由実作品が徐々に増えていったりしましたが、「デビュー半年でこの路線はちょっと早すぎねーか?」って感じ。セールスはどうだったのか覚えていませんが(何気に良かった気が……)、自分的にはかなりの失速感がありましたね。
 そうこうしているうちに、年末の賞レースに突入。仲間内では新人賞争いは「美奈子か!? 典子か!?」なんて盛り上がってましたが、内心「でも松本典子は無理かなぁ」なんて弱気な状態。なにせ、先の「さよならと言われて」以降、シングルをリリースせずに年末を迎えた松本典子に対し、本田美奈子は四曲目である起死回生の一曲「Temptation(誘惑)」があります。
 この曲によりデビューから続く筒美京平路線がようやく噛み合ってきたのか、作詞を売野雅勇から松本隆に変えたのが功を奏したのか分かりませんが、混迷していた露骨なアイドル路線の楽曲から、歌唱力重視(雰囲気としては明菜路線)に戻すことで見事にヒット。
 またこの時期「M'シンドローム」というアルバムをリリース。同アルバムには「Temptation(誘惑)」以前のシングル3曲が収められていない潔さ。さらに新人としては異例の武道館コンサートを行なうなど話題は急騰。
 これによる新人賞レースは本田美奈子に軍配が……と思いきや、ドラマで活躍し話題性を持っていた中山美穂に持って行かれることもあり、本田美奈子ファンはかなり悔しかったことでしょう。もちろん、松本典子ファンの我らも「美奈子に負けるなら納得いくが、まさか中山美穂とは……」という心境でした。
 その後、'86年の一発目として、今や彼女の代表曲となった「1986年のマリリン」をリリース。もう語るまでもない名曲ですが、前作に比べてよりハードな振り付けや歌唱力の高さにより、一種の完成を見た形でしょう。次作である「Sossote」も彼女の歌が引っ張る部分も強く、ハードな歌声は彼女の次なる路線を予感させる出来栄え。もう明菜路線などとは言わせない地位を築きつつも、ノリ的には「六本木心中」がヒット中のアン・ルイス路線に近いものを感じていました。
 そうしたロック調への自信を強めたのか、次の「HELP」の演奏は露骨にヘビメタ風。見事に歌いこなしてしまう彼女の探求は、次作「the Cross -愛の十字架-」で、より大きな動きを見せていきます。ハードロック界で有名なギタリストであるゲイリー・ムーアによる楽曲提供(カバー)です。
 アイドルとは縁遠いハードロック……しかも海外のギタリストとのコラボレートは、単なる企画モノっぽい受け取られ方をしてしまう向きもあり、正当な評価を得ていないような感じもしました。しかし、当時ギター小僧(?)だった私が言うのもナンですが、原曲とも言える「Crying in the shadows」のほうが華美過ぎて、「愛の十字架」こそハードロックバラードの意を得ていると感じられるほど仕上がり。ヴォーカルの持つテンションもさることながら、ギターの乗り具合も素晴らしく「アイドルが洋楽をカバー」という手垢にまみれた言い方では片づけてほしくない名作と言えます。
 この曲によって見せた本田美奈子の計り知れない実力は、この先も様々な展開に発展していく可能性を内包していたのでしょう。QUEENのギタリスト ブライアン・メイによる「GOLDEN DAYS」などハードな路線を経て、MINAKO WITH WILD CATSを結成するに至ります。この間にも、「One Way Generation」や「孤独なハリケーン」などのヒット曲を残しつつ、バンド編成へのスタイルにチャレンジしていきます。
 この活動も2年程度で、また個人名義の楽曲を'90年あたりまでリリースし、ニュースなどで報じられるミュージカルへのチャレンジの時代へと繋がっていきます。
 さて、こうした短い行数と私の知識レベルで彼女のアイドル時代を語るのは到底不可能なことですが、包括的に言えるのは過剰なまでのチャレンジ精神で一曲一曲に向き合っていたことでしょう。歌った曲は消化し、次の曲は必ず新しいテーマ・新しい挑戦をするかのように、自分の歌唱力や表現力に磨きをかけようとする。その姿は、常に自分を成長させようという気迫にも近いものを感じます。
 時として安定路線を歩むことで、見えることもあるかもしれません。それがヒットを生み出す方法のひとつでもあります。しかし、それを自分自身が許さず、決して立ち止まることなく常に走り続けたからこそ、アイドル~ロックボーカリスト~ミュージカル女優という転身を計りながら活躍し続けることができたのかもしれません。
 今さらですが、彼女が亡くなったことは信じられないし、信じたくありません。ただ、懸命に走り続けていたからこそ「ちょっと疲れちゃったかな?」と一休みさせてあげたい……そういう気持ちのほうが強いです。
 私にはこうして彼女の名前を綴ることや、歌を聴き続けることしかできませんが、できるだけ多くの人に彼女の歌声を聴いてほしいですし、こうしたアイドルシーンを含めて後世に残していくべきものだと考えています。今はそれを痛感しています。
 最後になりましたが、数多くの想い出を作ってくれたことへの感謝とともに、安らかなご冥福をお祈りいたします。

第10回


第12回 (COMING SOON!)


 目次へ戻る
ウィンドウを閉じる

アイドルマスタートップページへ(別ウィンドウ)
(C)窪岡俊之 (C)2003 NAMCO BANDAI Games Inc.